2003年12月の@
「街」日誌へ

12月1日(月) 「街」日誌
 リサイクルショップ・すぎなみ
契約完了 (^o^)丿
 オープン日、未定。でも徐々にプレ・オープンとして店を開いていきます。
先客万来 (^o^)丿    遊びに来て下さい (^_^)v
 「街」から「ジュゴンの家」、
そして、
リサイクルショップ「街」すぎなみへ/ハネやん
1、「街」、「関町ケアネットワーク」、沖縄料理店「チャンプルー」
 1993年、共同作業所の職員時代に自主運営のリサイクルショップ「オープンスペース街(まち)」(以下、「街」)の設立に関わって以来、いろいろな場を作っては、壊してきた。
 
 地域で暮らしていた病院のデイケアのメンバーの自殺をキッカケに、94年に立ち上げた憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」は、携帯電話の広がりと共にその役目を終えた。
 
 95年に作った、食と楽しみの場・沖縄料理店「チャンプルー街」も、2001年6月に惜しまれつつ閉店した。
 
 ワープロにモデムを繋ぎながら始めたワープロ通信の時代、そしてインターネットの勃興期、「街」のホームページの中にある掲示板「心の広場」には、全国の若者たちの悩みが書き込まれ、それに応えるため24時間、携帯電話による相談を始めた。
 
 そして地方で孤立している若者たちが宿泊しながら学びあえる場・「ステイ街」が出来た。一時は、リサイクルショップ「街」の前にあるマンションを3戸借り、「関町ケアネットワーク」を含め多い時で10人以上の若者たちが宿泊していた。そして若者たちの内の何人かが自立していった。

 ある日、インターネットを通じて「街」のことを知り、引きこもり・通院・入院を繰り返していた息子を連れた母親がやってきた。Kさん(26才)を初めて見た時、思わず「高校生みたいだ」と思ったほど幼い顔をしていた。
 
 「今まで息子のためにいくらお金を使ったか知れない」 母親は定年を間近にひかえ、「もうこれ以上息子の面倒は見れない」「これが最後のチャンス」という悲壮な覚悟で「街」にやって来た。Kさんにも「もう、これまでの生活を続けたくない」というギリギリの覚悟があった。 Kさんは「街」で二週間の研修を終えた後、近くにアパートを借りて自立生活を始めた。御飯の炊き方も知らなかった彼だったが、まもなく「街」を卒業し、地域商店でアルバイトをはじめた。高校中退のKさんは近くにある定時制高校に通い、その後専門学校に進学した。そして今年初め、植木屋に就職が決まって、この街から巣立って行った。
 
 Kさんとは、何度も衝突して出て行ったり、否を詫びて戻ってきたり、本当に沢山のエピソードがあった。彼が自立できた理由は、Kさんの意地と素直さ、「生れ変わりたい」 という強い意志、それと「これが最後のチャンス」という母親の覚悟にあったのではないかと思う。
 
 その「ステイ街」も今は、混在型グループホーム「ハウス街」という一戸建ての家(*現在は、女性用ホーム、男性用ホーム)へと形を変えた。そこではかつての「ステイ街」の機能の他に、知的なハンディキャップを持った人たちの自立体験の場などになっている。
 
 リサイクルショップ「街」、憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」、沖縄料理店「チャンプルー街」、宿泊研修の場「ステイ街」という4つの場は、今、「街」と「ハウス街」の二つに整理・縮小した。それでも衣・食・住+憩い・相談を、保障しえているのではないかと思っている。
 
2、「ジュゴンの家」へ
 「街」が出来た後、「街」のリサイクルショップ方式は、小平「カジャ」、三ノ輪「ゆいまある」、沖縄・名護「ジュゴンの家」、そして那覇「はんたぴあ」へと引き継がれた。
 
 「久良木さんの『日本全国・出会いの旅』沖縄編で紹介されていた女性で、「てるしのワークセンター」とか家族会の仕事をされている山里さんを交え、久良木さんの思い出、沖縄の精神保健の現状、『街』の目指している方向性など、日が暮れるのも忘れ語り合いました。話している中で、リサイクルショップ『街』名護店構想が僕の中でムクムクと頭をもたげてきた。

 沖縄に来て半月。第1期・ジュゴンの家から第2期・ジュゴンの家へ。この半月の過程は、『僕たちが沖縄で出来ること、沖縄の人たちと連帯する道、その内容を本土に持ちかえり、再びそれをふくらませて沖縄にフィードバックすること』を模索し、思考錯誤する半月でした。

 僕たちができること。徹底的に『地域』にこだわること。『連帯・共闘』を声高に叫ぶことではなく、地域の人たちの生活に根ざした現実から出発すること。これが『街』の精神・スタイルだ。たとえどんなに小さくても、一歩一歩堅実な前進を積み重ねて行きたいという想いで一杯になった」(2000.8.31「ジュゴンの家」日誌) 
 
 2000年秋、4つの場の整理・縮小に伴って生れた力を、沖縄・名護のリサイクルショップ「ジュゴンの家」へ注ぎ込んだ。当初は、僕たち年寄組と、アリちゃん・ようこちゃんの若者組が、半月交代で「ジュゴンの家」を運営するという計画を立てていた。アリちゃんは、インターネットを通じて「街」と知り合った北海道出身の引きこもり・入院を体験した青年。その後、僕と共に沖縄料理店「チャンプルー街」のシェフとなり、生きづらさから自らを解放した。
 
 2000年10月15日の「ジュゴンの家」のオープンの手伝いに来ていた埼玉県の不登校の高校一年生・晋君は一年間、「ジュゴンの家」の店長をつとめた後、昨秋から「ジュゴンの海の家」という移動式コミュニケーションの場を一人でスタートさせた(現在は名護・辺野古「命を守る会」事務員)。
 
 「失敗は成功の素」
 若者たちの可能性を信じ、責任ある仕事につかせることが成長につながる、というやり方を僕たちは取ってきた。失敗したら一緒に考えて、そこから教訓を学びとればいい。
 
 昨年6月、不登校・通院・入院を経験している群馬県出身のUさん(23才)が、名護に移り住み、11月から「ジュゴンの家」の店長となった。昨年末には東京出身のSさん(24才)が沖縄に来た。彼は小学校の時から不登校を続け、通院体験者でもあるが、今では立派に「ジュゴンの家」の店長代理をこなしている。「ジュゴンの家」の若者は元気で信頼できる若者として、沖縄の人々に認められ、愛されている。生きづらかった過去を乗り越えて、沖縄のおじい・おばあたちの希望の星となっている。 
 
3、「病」・癒し、から、解放へ
 押し付けられた生きづらさ、それを癒すだけでいいだろうか? 僕たちは、「病」・癒しではなく、人が人として生きることのできる社会づくりをする中で、自らを解放したい!
 
 2月3日の名護市長選挙。宮城康博さんの勇気ある立候補に対して、「街」と「ジュゴンの家」は12名で応援に行った。何しろ彼は、僕たちのバンド「ヨッシー&ジュゴンの家」のベースマンなのだから。その間「街」を守ったのは、メンバー、ボランティアさん、・お客さんたちだった。
 
 選挙戦など一度もやったことのない僕らだったが、ギターを弾き、歌を唄いながら朝から晩まで市街地を練り歩いて沢山の市民に訴えた。現市長の権力と金を使った無法選挙に一歩もひるまず、心の病やハンディキャップを乗り越えて最後までやり抜いた。当選を勝ち取れなかったとはいえ、僕たちに敗北感などない。やり抜いた勝利感で一杯である。
 
 「街」「ジュゴンの家」は本当に名護市長選を闘えて良かった。そして、やり抜くことの中で一人一人の足りない部分も知ることができた。更なる飛躍のための宿題として、選挙後、点検し、ただちに新しい挑戦を始めている。
 
 「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」(イタリア・トリエステの教訓)  2002.2.22
 それからいろいろなことが起った。連れ合いは2000年1月に「余命2年」と宣告された。僕自身も昨年の脳出血と、今年1月の大腸がん手術を経験した。しかし、そのことで心が萎えることはなかった。むしろ、日々をシッカリと生き抜いていこうという確信に変わった。
4、そして「リサイクルショップ・すぎなみ」へ
 今年に入って、新しい3つの場が生まれた。中野「スタジオ・ジロー」、目黒「とみしょーや」、そして何よりも衝撃を覚えたのは、11月、沖縄に行った時に寄った鹿児島・与論島にできた「つどいセンター・海」の見学だった。

 那覇の民宿「コパルト荘」で出会った与論島・田中豊次郎さんとは、久良木幹雄さん(故)を通して知り合った。そして何度も「与論島にリサイクルショップを作ろう!」と話し合ってきた。

 2日、「コパルト荘」に泊まった時に、田中さんの消息を聞いてみた。するとオーナーの照屋さんが「大島新聞」のコピーを見せてくれた。そこには「与論島の共同作業所『つどいセンター〜海〜』開所から3ヵ月」という文字が躍っていた。僕は矢も立てもたまらず与論島へ旅立った。 

 「当事者同士が安心して心を打ち解け合える『仲間づくり』の場から一歩踏み出し、共同作業所は立ち上げられた。田中会長は、センターに集う当事者を代弁して話す。「センターに通うことで自分たちが楽しむだけでなく、将来自分たちと同じように苦しむ人が出て来るだろう。そういう人たちのためにも、自分たちの手で、これまで島になかったものを作っていくんだという目的意識がある」。「自分が明るくなったと感じる」「家に一人でいるより(毎日が)充実している―そう話す利用者の横顔に、規則的に作業所に通い、仲間と心を通いあわせながら働くことが、彼らの内面に生んだ変化の大きさを感じられた。また一方で、地域社会に積極的に関わっていこうという意識が彼らの内に芽生えていることに、頼もしさを覚えた取材だった」(大島新聞10月13日号」
 人口6000人ほどの小さな島で、「精神障害者」であることをカミングアウトして、人の集まる場を作った彼らの気概に僕は大いに触発され、11月7日、東京に戻ってきた。細胞分裂が大好きな「街」グループ。来年春までに3つに分裂していこうと密かに想っている。健全な細胞分裂は、人を飛躍させる!  2003.12.1


12月2日(火) 「街」日誌
 リサイクルショップ・すぎなみ
 電気・テーブル・イスなどを運び入れました。
まだ、ほとんど、何にもありませんが、
来月の家賃が発生しているので、
明日から静かにプレ・オープンします。
いつものように、
金がない所から立ち上げたので、
カンパ・支える会などにご協力を
お願いいたします。 
 リサイクルショップ・すぎなみのホームページもスタート。
何にもないですが、見に来てください
 タカちゃん&フッ君、ホームヘルパー3級講習終了 (^_^)v
これで晴れてホームヘルパーです。

12月6日(土) 「街」日誌
 夕食です  鍋が煮える間にサンマ・鯖の〆 カキ・タラ・鶏・鍋の完成
 そこに沖縄・読谷から反戦地主の知花盛康さんが登場。他の行事もあったらしいのですが、わざわざ「街」を来訪して
くれました。
「ヨッシーとジュゴンの家」のミニ・ライブ。普段、あまり誉めることがないという盛康さん、「ヨッシーとジュゴンの家」の唄、
沖縄での「ジュゴンの家」のピースウォークを絶賛していました
 熱い・熱い討論が深夜まで続きも一時頃に帰宅

自衛隊をイラクに出すな!12・7 埼玉・浦和デモ

誰も殺さないで 殺されないで
外交官の死を派兵のために利用するな
自衛隊のイラク派兵反対! 埼玉県実行委員会
 司会者はイラクへ行ってきたそうです  ブッシュと飼い犬・小泉
 アフガニスタンに行ってきました
 沖縄大好き青年も唄う  国防婦人会の扮装で「銃後の守り」の心得を読み上げる。とても怖い考え
 百万人署名の長谷川さん  ワールドアクションのアピール
「イラクの子ども達は今」「私達が望むもの−自衛隊をイラクに行かせないこと」を唄う「ヨッシーとジュゴンの家」
 「イラクの子ども達は今」をうっとり聞く少女
 市議がCDを買ってくれたので、記念写真 (^_^)v
ブッシュ像を引き倒そうとしたが、
軽すぎて、やり直し
 3時、さぁ〜、浦和の街をピースウォークに出発
 今年の2・28以来の浦和の街。あの時はまだパーカッション隊ではなかった。
 キティ・メガはクロちゃん
↑ 店から出てきておばさんが、通行人のおじさんが、自転車に乗っている人も
        ↓ 少女は立ち止まり、マンションの住人も、自転車の少年も、ピースウォークに釘付けに  
 ピースウォーク終了後、伊勢丹前。「元気なデモで、若返ったわ〜」の声がアチコチから
 浦和駅前でシツコク唄う「ヨッシーとジュゴンの家」
「街」に戻り、
カツ弁当を食べる

 12・9 自衛隊イラク派兵閣議決定阻止 国会前行動の午前 写真速報
全国各地からたくさんの人が集まって反対の声を上げる

             ↑


 先日は一日350人の人と出会って280名
の署名をいただいた。

残りの70名の内、50名はもう署名した人、
目が不自由なのでかけないという人。

つまり90%以上の人はイラク派兵に反対
している。

「僕の家に来て、家族・おじさんに話を
聞かせて下さい」という小学生もいた。
文化放送の人が「僕たちの望むもの…自衛隊をイラクに派兵しないこと」
を録音していきました。
 「♪ 自衛隊をイラクに送るな!

  イラクはイラクの人たちのもの」

をみんなで合唱しました。
ワールドアクションより転載
速報  12/9(火)PM4:20、イラク派兵基本計画の閣議決定弾劾!

 12/9(火)PM4:20頃、小泉政権は、イラク派兵基本計画を閣議で正式決定しました。絶対に許せません! 全国の8〜9割の人々の自衛隊派兵反対の声を無視して、年内のイラク派兵をねらう小泉首相に、ただちに抗議の声を集中しましょう!
 自衛隊のイラク派兵をとめる行動は、いよいよこれからです。政府が閣議で決めたからといって、派兵が決まったということでは全然ありません。全国100万人の大行動で、自衛隊イラク派兵をとめましょう! 何よりイラクに行かされるのは、殺し合いをさせられるのは、自衛官であり、私たち民衆です。しかも、この派兵は、「復興支援」と称したイラクへの侵略であり、武力による石油の略奪であり、軍事占領に対するレジスタンス(抵抗)を展開するイラクの人々を虐殺していく侵略戦争への参戦です。こんな戦争には、一片の正義もありません。私たちが力をあわせ、派兵を拒否しつづければ、政府がどんな命令を出しても戦争をすることはできません。
 12/13(土)〜15(月)、北海道・旭川と愛知・小牧の自衛隊基地を包囲する現地行動に行こう! 自衛官に直接出兵拒否を呼びかけよう!
 そして12/15(月)〜16(火)には、衆参両院で、閉会中審査というものが行われます。小泉政権はあくまで自衛隊の年内派兵を狙っています。今日につづいて、今日よりももっと大人数で、国会に押しかけよう。
 12/20(土)、渋谷の街を反戦の声でうめつくそう! 夕方5:30、渋谷・宮下公園にあつまろう!

速報 12/9国会行動の写真(午前9時〜午後3時)

今日の国会前は、大勢の人たちが集まって、基本計画の閣議決定をとめようと座り込みや署名、チラシ配布などを行いました。


9−10日、関のボロ市
関のボロ市は、一年で2日だけ関町が原宿状態になる日。
朝から張り切って売るフッ君・ナンちゃん  ボランティア5人組
 久しぶりにエッちゃん登場。いかに
病気を乗り越えたか、明るく・楽しく
語ってくれました。
 9日の夕食作りは毎年、神保さんが作ってくれます _(._.)_
東さん…  沖縄ドーナツ、お買い上げ
8時前から、万灯行列が「街」の前を通る。団扇太鼓を打ち鳴らしながら進む姿は、
「ヨッシーとジュゴンの家」のパーカッション隊のルーツと言ってもいい。
 行列を合図に、打ち上げの開始。その間、村松さんが店員をしてくれる  茶月さんから寿司の差入れ (^o^)丿
 息子が竹の子族だったという
お母さんのハッピ
9−10日、本立寺と関のボロ市

 この寺は、開山以来長い間法華経の宣布道場としての役割を果たしてきました。本尊は、とくに「旭日蓮大菩薩」と呼ばれ、出世開運のお祖師さまとして人々の信仰を集めています。
 12月9日、10日にはお会式と共に「関のボロ市」がたちます。多くの人が集まって大変にぎやかです。かつてこの市は、「本立寺の市」、「暮の市」ともよばれ、江戸時代から続いています。時代は移り変わっても「関のボロ市」は地域の師走の風物詩となっています。

Wanted
 マック11才。6日の夜から家出・行方不明中!

12月12日(金) ほっとスペース八王子 ライブ
 午後、5人でほっとスペース八王子の忘年会に行きました  ヤスべえさんです
ライブをしました

 12月14日(日)
 14日は、「リサイクルショップ・すぎなみ」(アドレスが新しくなりました)の正式なオープン日でした。
 ミッちゃんが早くから働いています…おっとぉ〜っっっ、なんと看板だぁ〜っ (^_^)v
 店の正面と横の2面に、「リサイクルショップ・すぎなみ」の文字がクッキリ _(._.)_
 再び、乾杯 (^_^)v 夜になったので、寿司の登場 チューやんさしいれのスペアリブなど
← 女性陣が乾杯 (^_^)v



 おじさん組は別室で 乾杯 (^_^)v →
夜もふけてきて、「ヨッシーとジュゴンの家」の初ライブ

「街」日誌へ




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