(2003年2月『部落解放』515号より)筆者と編集部のご好意により転載しています
はじめに
昨秋の臨時国会において、「心神喪失者医療観察法案」の修正案が衆議院で強行採決され、参議院で継続審議となりました。
この「心神喪失者医療観察法案」は、殺人、放火、強姦・強制わいせつ、強盗、傷害にあたる行為をして心神喪失・心神耗弱で不起訴、無罪あるいは執行猶予判決を受けて実際には受刑していない精神障害者に対し、再犯防止のために、「再犯のおそれ」を要件として裁判官1人と精神科医1人の2人が合議で強制的に入通院をさせるかどうかを決めるというものです。
この法案は池田小学校事件を契機としていますが、その後の自民党・与党PT案、法案提出、と新法制定の動きが具体的になるにつれ、反対の声もいろいろな形で出てくるようになりました。精神障害者当事者、家族、精神科医療従事者、福祉関係者、法律家その他の市民などなど、それぞれの立場からの反対声明等が出され、集会やデモ、国会議員への働きかけなどが取り組まれてきました。立場や考え方の違いはあっても、この法案を廃案に、という一点でのゆるやかな共闘が組まれてきたと思います。そのことが、ともかくも拙速な審議・採決を阻んできた力になったと思います。
これに対して、反対派の一部を取り込もうとして自民党が出してきたのが修正案です。とりわけ批判の強い「再犯のおそれ」を削除し、「医療・福祉の水準向上」を掲げることによって、民主党に揺さぶりをかけてすんなり可決成立、という自民党のシナリオは、しかし思惑通りには行きませんでした。修正案においても相変わらず「再犯のおそれ」要件は変わっていないことや「医療・福祉の水準向上」は単なるお飾りにすぎないことを見透かされると、一転して、修正案についての審議もろくにしないまま、野党の審議継続の要求を無視して衆議院での強行採決という暴挙に出たのです。
ここでは、修正案でも変わっていないこの法案の問題点を明らかにしていきたいと思います。
<修正案も「再犯のおそれ」という要件は変わらない>
修正案の最大のポイントは、処遇要件である「(入院をさせるかあるいは継続的に)医療を行わなければ心神喪失又は心神耗弱の状態の原因となった精神障害のために再び対象行為を行うおそれがあると認める場合」を、「対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様の行為を行うことなく、社会に復帰することを促進するため、(入院をさせて)この法律による医療を受けさせる必要があると認める時」に変更するという点にあります。
この修正については、とりわけ批判の強かった「再犯のおそれ」という処遇要件を削除したという説明がなされています。条文だけを見ると、一見「医療を受けさせる必要がある」という医療上の要件に変わったように見えるかもしれません。
しかし、「医療を受けさせる必要がある」場合に医療を受けさせるというのではトートロジー(同語反復)であって何も言ったことにならず、要件としては却って不明確であいまいになったともいえます。
あいまいになったとはいうものの、この修正案の条文から処遇要件を考えると、それはやはり「再犯のおそれ」になります。なぜなら、その「医療を受けさせる」目的である「対象行為を行った際の精神障害を改善し、同様の行為を行うことなく社会に復帰することを促進するため」のうち、「精神障害を改善し」「社会に復帰すること」は通常の医療・入院の当然の目的のはずですから、それだけでは特に意味はありません。意味があるのは「同様の行為を行うことなく」すなわち「再犯防止」が付け加わっている点ということになります。とすれば、やはり「再犯のおそれ」の有無を判断せざるを得ず、結局は、処遇要件の基本的な内容は何も変わっていないということになるからです。このことは、あいかわらず処遇決定に精神科医のみならず裁判官が関与することからも言えます。
しかし、人間の将来の行動を予測することはできず、「再犯のおそれ」を判断することは不可能であって、必ず誤って拘禁される人を生み出すということは明白です。欧米の研究成果をふまえても、「再犯のおそれ」があると判断された人のうち実際には再犯しない人が8割にものぼるというのです。こんなに不確実な根拠で、しかも無期限に人を拘禁することは許されません。
<修正案の「社会復帰」のまやかし>
修正案においては、「精神保健観察官」を「社会復帰調整官」に名称変更したり、関係者の「社会復帰」への努力義務を加えたり、付則に「医療・福祉の水準向上」を加えたりして、「社会復帰」ということを強調しています。
しかし、これらはせいぜい努力義務であり、具体的な裏付けのないお題目にすぎません。また、「社会復帰調整官」はこの法案の下での強制通院を実施する保護観察所の職員であり、上司である保護観察所の長が適切に退院して通院中の人の再入院の申立や通院している人の通院期間の延長の申立などを行えるように、常に対象者の「再犯のおそれ」を判断し報告し続けなければならないのです。治安の観点から対象者を監視するという点では、たとえ名称が変更され、精神保健福祉士の有資格者がその職に就いたとしても、「社会復帰調整官」は医療・福祉とは異質な役割を担い続けなければならない点は変わらないのです。
そもそも、日本の精神科入院患者数33万人という数字は、実数でも人口比でも世界一の異常な多さです。しかも、5年以上の入院患者が15万人、20年以上の入院患者が5万人と言われます。7万人とも10万人とも言われる社会的入院(病状としては退院できる状態なのに、社会の側の受け入れ態勢がないために退院できない状態)を解消することすらできていないのが現状です。それなのに、精神障害者であり、かつ、重大犯罪にあたる行為をしたという二重のレッテルを貼られたこの法案の対象者がスムーズに社会復帰できるとはとても思えません。現在でも共同作業所を作ろうとすれば地域の反対運動が起こったり、退院するためにアパートを借りようとしてもなかなか貸してもらえなかったり、いろいろな困難がつきまとっています。それに対する国の施策はあまりにも不十分です。
人間は、本来、社会の中で、人との関わりの中で生きるものです。たとえ病気で入院することがあっても、それは一時的なものであって、社会に戻るためのものであるはずです。ところが、年単位で社会から隔離され、人との関わりを遮断されることは、社会の中で生きるための術や居場所や意欲までをも失わせてしまうのです。これは、ハンセン病患者に対して行われてきたことであり、現在の精神病院でも行われていることです。ましてや、どんな人についても「再犯のおそれ」が全くないと言うことはできませんから、法案の下での入院期間は必然的に長期に及ぶでしょう。しかも、この入院期間には上限すらなく、無期限の隔離になることも十分予想されます。「いずれは社会に帰れる」という希望を持つことすらできないのです。
今も、地域で精神障害者とともに生活するという実践が少しずつ積み重ねられつつありますが、この法案は、それらの実践に逆行するものです。なぜなら、「らい予防法」がハンセン病患者を特別に強制隔離することによって「ハンセン病患者は隔離されるべき危険な存在である」という誤った社会認識を作出・助長したとハンセン病熊本地裁判決で断罪されたのと同じように、精神障害者のみを特別な再犯予防の対象として強制隔離する法律を作るということは「精神障害者は危険な存在である」という誤った社会認識を作出・助長するものだからです。
この法案は、「社会復帰」に役立たないばかりか、かえってそれを妨げるものでしかないのです。
<偏見に基づく法案>
この法案は、池田小学校事件直後の「精神的に問題がある人が逮捕されてもまた社会に戻って、ああいうひどい事件を起こすことがかなり出てきている」という小泉首相の発言をきっかけとして急遽作られました。
しかし、そもそも、この小泉首相の発言には事実誤認があります。
犯罪白書によれば、検挙されたうちの精神障害者(精神障害の疑いのある者を含む)の割合は約0.6%とされ、ここ10年間変わっておらず、増えているという事実はありません。全人口に占める精神障害者の割合は約1.7%と言われますから、むしろ精神障害者による犯罪率はそれ以外の人の犯罪率よりも少ないことになります。また、再犯率に関しても、たとえば法案推進派の山上皓教授の調査でも、殺人を行った精神障害者の再犯率は6.8%、精神障害を持たない人の場合には28%というように、精神障害者の再犯率の方が低いという数字になっています。
また、精神障害者は逮捕されてもほとんど不起訴になるかのように誤解されていますが、2000年の精神障害者の起訴率は46%であり、全体の起訴率58%とあまり変わりません。実際にも2001年に新たに刑務所に入った28,469人のうち、精神障害者は1,207人いるのです。
こうして見てみると、精神障害者は、犯罪率も再犯率もそれ以外の人々よりも高いという根拠はなく、他方では実際に他の人たちと同じように裁判を受け、刑務所にも入っているのです。ですから、精神障害者に対して特別に犯罪対策をすべき根拠はありません。それなのに、精神障害者についてだけ特別に再犯防止の対象とすることは、偏見に基づく差別以外の何物でもありません。そして、このことはいくら条文を修正しても変わっていないのです。
<法案の本質〜刑罰に代わる制裁>
そもそも、事件を起こしたときに、精神障害のために、いいことか悪いことかの判断が付かないような状態であったり、自分の行動をコントロールできないような状態であったりした場合には、責任能力がないとして刑罰を科すことはできません。これを責任主義といい、近代刑法の大原則です。犯罪にあたる行為をしたのに処罰されないのはおかしいと思うかもしれません。しかし、たとえば、同じ結果であってもわざとやったのか(故意)、誤ってやってしまったのか(過失)によって、責任の度合いは違うと考えるのが自然ではないでしょうか。責任というのは行為の結果だけで決まるのではなく、悪いこととわかっていて止めようと思えば止められたのにあえてやってしまったことに対する非難として、やった人の事情に応じて決まるのです。精神障害の症状に支配されてやってしまったことであればその人には止められなかったのですから、その人の責任ではないのです。人口比から見ても精神障害を持つことは何ら特別なことではなく、精神障害を持ったことはその人のせいではありませんから、そのことで責任を負わせるわけにはいきません。法は不可能なことまで人に要求しないのです。
もちろん、精神障害者であれば責任能力がないというわけではありません。精神障害者が事件を起こす場合も、症状に支配されて起こすこともあれば、障害がない人と同じように孤立、葛藤、恨み、欲望などから起こすこともあります。事件の時のその人の状態によって責任能力があることもないこともあり、現に前述のように多くの精神障害者が裁判を受けて責任能力ありとして刑務所で服役しているのです。
この法案は、殺人等の重大犯罪にあたる行為をして心神喪失・心神耗弱により不起訴、無罪等となって実際には受刑しない人を対象にしています。しかし、「重大犯罪にあたる行為をした」か否か、あるいは、そのうちで「心神喪失・心神耗弱により不起訴・無罪等となって受刑しない」か否かの区別による特別な専門的治療法は医学的に存在しません。そうであれば、これらの者を特別に一般病棟と異なる施設に強制隔離することについての医療上の根拠はありません。結局、この強制隔離は、無罪等になった人に事実上の刑罰に代わる制裁を加えるものなのです。
しかも、この法案では刑事裁判とは異なり、警察・検察が一方的に作った調書等がそのまま証拠となり、簡単に犯罪にあたる行為をやったことにされてしまいます。付添人弁護士をつけることはできますが、記録を謄写する権利も、証人を申請したり反対尋問をしたりする権利も、本人と立会なしに打ち合わせする権利も保障されていません。本人や付添人には権利らしい権利はなく、事実関係を争うことは非常に困難です。これでは、やってもいないことをやったとされて事実上の制裁として拘禁され、予測不可能な「再犯のおそれ」を根拠にいつ出られるのかもわからないという、場合によっては刑罰よりも過酷なことになりかねません。
<おわりに>
精神障害者に対して、再犯防止のためにこの法案のような特別な拘禁制度を新設する必要性も根拠もないことは前述の通りです。それよりも、必要なことは、不調を感じたときに自分から安心してかかれる精神科医療であり、地域での生活を支える気軽に利用できる福祉です。そのためには、他科の3分の1の医師数でよい等とする精神科特例をまず撤廃し、単科精神病院ではなく総合病院の中に精神科病床を設け、精神科医療を他科なみの水準に引き上げることです。
他方、事件を起こしてしまった精神障害者に対しては、逮捕・勾留されてる間や裁判中も受刑中も含めて、社会内と同様に必要な医療が提供されなければなりません。現状ではなかなか医療を受けることができず、病気が悪化したり、症状による行動を反抗的であるとされて懲罰を受けたりしています。また、責任能力鑑定のあり方を適正化し、安易な起訴・不起訴がなされないための枠組みを作ることも必要だと思います。
このような精神科医療・福祉と刑事司法の改善の方向に対して、この法案は逆行するものでしかありません。いかなる修正も、再犯防止目的に基づくこの法案の構造を変えない限りその本質を変えることはできません。
こんな法案には、廃案しかありません。
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